これは夢の話だ。

写真嫌いで有名なコマツさんは、以前ならば撮られること自体を拒否していたのだが、最近は大人になって――というかいちいち断る面倒になって「撮ってもいいが見せてくれるな」という態度を取るようになっていた。

自分の映っている写真など必要ないではないか。そうぼやくコマツさんに、友人の一人がこう返した、

「だって思い出じゃない」

「だからこそだ!」

硬く握ぎられた拳を、ダスンと机に打ちつけてコマツさんはそう叫んだ。理屈はこうだ。普段自分の目には自分は映らない。すなわち思い出には自分の姿などないはずだ。それなのにキサマらの撮っている写真には己の姿が入っている。それになんの疑問も感じないのか? 俺の姿が入っている時点でそれは俺の思い出じゃない。そんなもの親しみがもてるどころか、むしろ疎外感を覚えるくらいだ!

友人は呆気に取られていたが、それなりに納得した様子でこう言った。そうだったのか、単に自意識過剰なんだと思っていたよ。

「確かに。その傾向はないとは言えない。実際、自分の顔だと認めているのは鏡に映った正面からの顔のみで、他の角度から撮った自分、つまりカメラで撮られた自分は、自分では自分と認めていない。そいつは名前の思い出せない知り合いくらいにしか思えないのだ」

「じゃあ夢の中の自分ってどんなの?」

「夢の中の自分??」

コマツさんは戸惑った。友人の質問の意味が瞬時には理解できなかったからだ。しばらくすると思い当たる点が見つかったものの、なお疑り深げな顔でこう訊ねた。

「つまりキミには、夢に自分が、映像としての自分の姿が出てくるというのかね」

「出てこないの?」

「そんなもの出てくるか気色悪い!」

コマツさんの夢は現実と同じ様に、自分の体の一部(例えば手や脚など)は出てきたとしても、自分の姿全体が出てきたことはなかった。一方友人は、そのどちらのパターンの夢も見るという。

「自分の目に映るはずもない自分が出てくるなんて、恐ろしくないのかねキミは!」

「いや別に、普通でしょ」

そんなことはないはずだ。そのような夢を見ることができるようになったのは、早くても写真が発明された2世紀ほど前からだろう(頻繁に肖像画を描いてもらえるほど裕福だった人々は、例外的に見ていた可能性はあるが)。手軽に映像を取れるようになった今だからこそ、多くの人々がそのような夢を見ることができるのだ。きっとTVに映る仕事をしている人たちは、自分の姿が見える夢をよく見るに違いない。

怖いかどうかは別として、やはりそのような夢には不思議な感覚であるはずだ。自分でカメラを覗いて自分の映像を撮っているようなものなのだから。自分でしかない自分が、まるで他人のように存在している。その奇妙な感覚は、コマツさんがこの文章を書いている感覚に、少し似ているかもしれない。