友人の結婚式の朝だというのに、今日も隣の夫婦喧嘩で目が覚めた。壁をもすり抜ける女の罵声。高音より低音のほうが響くなんて嘘のようだ。一度コレが始まると、深夜だろうと早朝だろうと数時間続くので起きるしかない。喧嘩の内容なんて聞き取るまでもく、たぶん金か時間の費やし方についてだ。話の流れだって予測できる。女が男のことをほとんど一方的に責め立て、そこから別居や離婚を迫るのだが、男は「冷静になれよ」など言いそれをはぐらかし、結局すべてがうやむやになるのだ。

どうやら原因は男にあるらしい。だが(声はそこそこ大きいものの)冷静を装い話すので、音だけ聞くと喚き散らしている女のほうが悪いように思えるから不思議だ。まぁ現にこっちの迷惑の原因は女の声量なので、強ちそれが間違っているとも言えないのだが・・・・・・。

その迷惑な夫婦とは対照的に、もう一方のお隣さんである夫婦は非常に仲が良く理想的な家庭だ。以前、奥さんのほうと出くわしたとき「とても仲いいでね」と声をかけたことがあった。すると「知的障害の子供を持つと、夫婦って強く団結するか、いがみあってバラバラになるかのどちらかなんですよ」と感慨深げな笑顔で返されたので、背筋がぞくっとした。その表情にはお手軽な想像を遥かに超えた、濃縮された時間が含まれているように感じられたからだ。

このマンションの周辺には障害者を支援する施設が多いので、住んでいる家族が知的障害者を含んでいる比率が高い。迷惑なほど喧嘩を繰り返すあの夫婦もそのひとつだ。二年前まで真下に住んでいた家族もそうで、そこは悲惨なパターンの中でも最悪の部類だといえる。

明らかに悪いのは夫の方だった。同じ知的障害を持つ家庭なのに、他の子供の症状にまったく理解を示さず、何かにつけてクレームを出し揉め事を起こした。狂ったような自己流の教育をひけらかし、さらには家庭内暴力、ときたのでついに奥さんが逃げ出してしまった。自棄を起こして何かしでかすのではないかと心配が囁かれたが、そのうち当人もスルッといなくなったので、マンションの住民としてはホッしたというのが本音だ。

他の例もいろいろ思い返してみると、隣の奥さんの意見はまったくその通りだった。障害を持った子供と暮らすということに限らず、図らずして特殊な家庭環境になった場合、家族の助け合いは不可欠なのだろう。

そんなこともあって、個人的には未だ結婚にまったくリアリティーを感じないにも拘らず、まるで夫婦に試練を与えるかのような出来事が、突然訪れる可能性があるのだ、という事実だけは、妙に身に染みているのだった。そしてもうひとつハッキリと実感しているのは、その試練を乗り切った二人はとても強く、素敵に見えるということだ。


そんなこともあり、「花嫁可愛かったね」で済ませばいい結婚式二次会に、随分と先回りした「試練を乗り越え素敵な二人になって欲しい」などという願いを抱えて参加することになったわけだが、そもそもそんな試練とやらは起こらないかもしれないし、大抵は喜んで受け入れるようなものではない。故にその想定自体が不謹慎ではないか!と思い返してはみたものの、そのことがなぜか頭から離れないまま会場に足を踏み入れてしまったのだた。

しかし、実際主役の二人を目の前にすると、それまでめぐり巡った考えが、まるで嘘のように爽快に砕けたしまった。この二人に邪魔くさい試練など起こるはずないではないか、という想いが、確率うんぬんを飛び越えて頭の中を圧倒してしまうのだ。本人を目の前にするということは、たぶんそういうことなのだろう。そんな起こるかどうかもわからないものを懸念するなんて、阿呆のすることのように思えてしまう(だからこそ実際起きてしまったとき、とても悲劇的に見えるのかもしれない)。今はただ祝福さえすればいいのだ。

友人である花嫁は、常に「カワイイ」という言葉がつきまとう童顔なので、ウエディング姿を見た感想として「お姫様の豪華な七五三みたいだよ」というセリフを事前に用意していのだが、実際にはそんな意地の悪い言葉を口にすることはなかった。


「オメデトウゴザイマス」

親しければ親しいほどぎこちなくなる定型句。義務的に言ってみたはいいものの、やはり小っ恥ずかしい。

「来てくれてありがとう」

「3ヶ月前に会ったときはそんな話まったく出なかったのにな」

「そうだよね・・・・・・」

目の前に立つ花嫁の腹部は、予想していたよりもはるかに大きく、その顔に浮かんだ微笑は、こちらを黙らせるほど強く、美しかった。それは、隣に住む奥さんの、あの感慨深げな笑顔を彷彿させた。