グラン・トリノ』を観終わった直後、震えを抑えるためにちょっとメモ的なものを。

シンプルな話の中に色々なものが詰まっていすぎて、気持ちをどこに持っていっていいのかわからない。「アメリカ的なるもの」を考えてみたことのない人にとっては、ただの「カッコイイじーさんの話」でしかないのかもしれないが、自分にとっては、もう一度観なければ!と思わせるほどすごい映画だった。とりあえずさっきまで見てたところ、一番最後の部分だけでも考えたことを書き残してみる。


エンディング、グラン・トリノは隣の青年タオのものになる。そんなことは映画冒頭で予想できてしまうことなのに、驚くほど感動してしまう。しかしその感動を、お涙チョーダイのシーンを、おもいっきり邪魔するカットが出てくる。それは息子の馬鹿娘、つまり孫にあたる女の表情のアップだ。この娘はじーさんの家にある「ヴィンテージ」として価値のあるものを、まったく何もしないで、血の繋がりだけを根拠に手に入れようとする。しかも「おじーちゃんが死んだらコレちょーだい!」みたいな軽さでだ。

不愉快がガキである。中盤まったく出てこなくなるので清々するのだが、このガキのアップをわざわざ、グラン・トリノを誰に渡すか、を発表する最後の最後のシーンに入れているのである。この娘の、もしかしたらアタシにくれるかも!という素直な願い、祈りの表情が、心の底から憎たらしい。おかげで危うく流れるところだった涙が、寸でのところで止まってくれたのである。

この娘のアップは必要不可欠なものだと思う。単に若者、もっといえば人間の愚かさを指し示しているだけでなく、「何も行動を起こさないで何かを得ようとすることが、どれだけ醜いことなのか」ということを強く訴えかけてくるのだ。

現在、オバマ政権下でヒートアップしている福祉問題に象徴されるようなアメリカ的感覚。戯画化されるところの、無料=共産主義=唾棄すべきもの、というような強引な連想の仕方は、今まで冷戦下で染み付いた呪いのようなものだと理解していた。だがその根底にある信念を、この映画は最後で教えてくれた。

何も行動を起こさないで何かを得ようとすることが、どれだけ醜いことなのか。

それは裏返せば、行動しなければ何も得ることができない、とも言えるし、行動して得たものこそが本当のものなのだ、とも言える。言い回しはどうでもいい。とにかく、アメリカの例のアレな感覚の底にあるのは、きっとソレなんだろうな、と強く感じたのだった。



本当に泣かせるような映画は駄目だと思った。感動は流しちゃいけない。前から心がけていたことだけれど、感動は自分の中に押し留めなくてはならないし、映画もそう作られるべきだと強く感じた。ぬん