本日から公演が始まったチェルフィッチュ「エンジョイ」を観てきました。チェルフィッチュは「目的地」に続いて二回目。前回は情報量が多過ぎて、部分的には楽しんだのだけれど、全体的な把握がイマイチできなくてくやしかった。今回はそれに比べるととてもわかりやすく、独特の振り付けや語り方がもっとも活きるようなテーマだったと思う。

フリーター問題を扱った作品。まず観る前にチラシの裏側に書かれている岡田利規さんの文章を読んで驚ろかされた。ネット上にもあるので全文引用してしまおう。

「不安定な現状を焦燥しろ」とか、「そこから抜け出す方途を必死に探しだせ」といった
勧告の存在を彼らは知っていて、でも同時に、未来とは可能性のあたえられていないもの
のことであるのも、彼らは知っている。
「彼ら」と書いてるけれど、もちろんこれは私たちのことだ。
彼らがそして私たちが置かれている、このような社会条件下であっても、彼らはそして私
たちは、なんであれ与えられた生を楽しんでよいし、楽しんでるその仕方を肯定してよい。
その仕方を矮小と感じてしまうことなく楽しみ続けることが難しく思われるときがたとえ
あったとしても、「楽しんでいる」と明言してよい。


凄い文章だと思いませんか? 「楽しんでよい」、「肯定してよい」、「名言してよい」の部分が衝撃的。普通ならば逆のことを言うし、ポジティブに表現したとしても、そのあとには「かもしれない」といった曖昧な誤魔化しがくっつくはずだ。それをオッケーと断言してしまうことにまずびっくりし、舞台を観始めるとその言葉とはまったく逆なんじゃねーかというようなお話が始まることに二度びっくり。「楽しむな」、「まずは否定するとこからはじめろ」、「名言できないだろ?」といった外からの圧力から耐えも、逃げも、乗り越えもできない状況が示される。

その状況にあの独特なまとまらない、まとまったところですぐひびが入るような語りが、妙なリアリティを持っていた。否定してもどうしようもないから肯定せざる負えないけど、先をよくよく考えるとまともな感覚では肯定できないし、だからといってまた否定したとここでなにかが良くなるわけではなく、むしろちょっと悪くなったりして最悪の場合死にたくなるけどやっぱ死なないし、死にたいと思うことすら嫌だから肯定しようかな?的なまわりくどさの真実を、観ていて辛くなるほどうまく表現していた。

また今回がわかりやすい内容だったせいか、前回も見られたチェルフィッチュ独特の人間の表し方も、少しずつだけど自分のなかで咀嚼できた部分があった。

ホリエモンの「想定内です」に代表されるような、様々な選択肢を予想してしまうコミュニケーションのとり方に、前回から不思議な共感を持っていた。ひとの話をファースト・インプレッションではこう感じたけど、よくよく考えるとこういう意味で言っていたのかも、いやいやもしかしたらこっちのニュアンスも含めていたのかも・・・・・・などと最初っからコミュニケーションがうまくいかないことを前提に、自然といくつも予想を立ててしまう。それは相手だけではなく、自分が言った言葉もそれを言った瞬間に「もしかしたらこういう風に受け取られちゃうかも」という不安が常に付きまとう感覚。それは「自分が言ったことは必ず相手に伝わり、自分の解釈はだいたいいつも正しい」と妄信しながら行うコミュニケーションよりは遥かに進歩している。ようにみえるが、そこには独特の息苦しさがつきまとう。

予想を自然と立ててしまうため、大体のことが「想定内」になってしまう。ひとつの答えを断言して「コレです!」とは言えないにもかかわらず、事実がわかると「想定内」だったと勘違い(?)してしまう。一方「コレです!」という断定は、容易にできなくなってしまう。もちろん演劇の中では以上に強調されているものの、この現代的な(?)感覚に共感した。そしてなにより今回のテーマであるフリーターの「まともさ」と「ひとつの答えを選べない自分」というものにピッタリだった。

フリーター(♂)でも「三十路」というのが大きな分岐点とされている(らしい)。その多くがそのような圧力を感じつつも三十路に乗っかってしまうってのはどうしてだろう?とちょっと考えてみると、それは地図を持っているのにちゃんとみないで道を間違えた感覚に近いのかもしれない、と思った。薄々「この道たぶん間違えているよなー」と感じつつも、「引き返すのだりぃし、とりあえずコンビニ見つかるまで歩こう」と気楽にあるいているうちに三十路になってしまう。そういう時に限ってコンビニは見つからなかったりして、やっと見つかったと思い正しい道を尋ねると「もう後戻りできないよ。ちなみにこの先一本道だから」と宣告されちゃうのだ。

目の前に続くのは細くやたら長い道だった。どうやらもう分岐点は期待できないらしい。しかもただでさえ細い道がこれからさらに細くなっていくという。最終的には崖がまっているという常識にもようやく気づく。そこから落ちたら死ぬ。と思いきや、ホームレスというものになってまだまだこの世からおさらばできないらしい。

もちろんそれも「想定内」ではあった。が、無意識に「想定外」にしていた面はいなめない。その突然あらわれた、というか見ないようにしていた「想定内」に気づいたとき、我々はどうすればいいのだろう。沈黙しても、ややギレしてみたりしても意味はない。むなしさが増すだけだ。もはや我々に残された手はエンジョイすることしかないのかもしれない。少なくとも「エンジョイしている」とは言わなければ、言うところから始めなければ・・・・・・。

観た後に先日読んだ『終わりまであとどれくらいだろう』(桜井鈴茂)を思い出さずにはいられなかった。今回はフリーターに限定されているけれど、根本的な問題はみんな同じように抱えているはず(無意識に「想定外」に置いているだけで)。特にフリーターがしんどそうに見えるのは、やたら早い段階から追い込まれるからなのだ。


普段演劇なんてほとんど見ないくせに、やたらと長々と書いてしまった。ま、人ごとじゃないんで。


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