吉田アミさんの熱い篤い灼熱のレビューを読んだら、『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』を見ずにはいられなくなり、YouTubeで既に放映されている分を全部チェック。

http://www.ufotable.com/manabi/


アニメは好きだけれど最近は映画しか見ていない自分にとって、TVアニメ自体が久しぶり。ましてやぷにぷにした女の子たちが登場する作品など、ハナから「俺とは関係ない」扱いしているわけです。予想通り変態的好奇心を煽るようなシーンが現れると、うひゃ〜と思わず画面から退いてしまったのですが、それは最初だけで3話目くらいからほとんど気にしないで見れるようになりました(順応するのは得意なんです)。

感想は、残念ながらとっても面白いというものでした。こういう作品が自分の知らないところできっとたくさん流れているのだろうな、と気づくことはちょっとしたショックです。世の中そんなことだらけだ、刺激的なものは受け手の許容量を超えるほどたんまりあるのだ、ということはMy Spaceで音楽をアラ探していると嫌でも気づかされます。その対処法としては、吉田アミさんの仰る通り「出会っちゃった奇跡こそに意味を見出していく」しかないのでしょう。「しかない」というのはちと消極的ですね。今後は積極的にそういった楽しみ方を楽しもうと思っています。

話を戻しましょう。スゴイ楽しいわけです。女の子が涙と苦悩を交えてきゃはきゃはやっている姿に、毎朝髭を剃らざるおえない男が小さな感動を覚えるわけです。それっていったいどういうことだろう? と考えながら、いくつか感想が書かれているブログを見てまわりました。面白いものが多く、幸か不幸か自分が持った感想の大半は、どこかしらで語られていました。でも俺は病的に語りたがりなので、そこからはみ出た感想だけでも引き伸ばして書いてみようと思う。


むかーし、むかし。どれくらい昔かというと実はわりと最近。プールバーやBARカウンターが娯楽として社内で用意されている会社ができました。そこに勤める「偉い」人はこう言います。「会社にも息抜きのための娯楽は必要なんですよ」。コレを、なんかいい話っ!とは思えなかったんですよ、俺は。むしろムカついてしまったのです。「娯楽まで管理してくれるな!」というのが率直な感想。そんなもん自分で選びたいし、あわよくば新しい「娯楽」を自分で考案したいじゃないですか。

なぜこんな話になるかというと、その「偉い」人が言う「息抜きとしての娯楽」と、俺が愛してやまない、無駄というエッセンスたっぷりの「娯楽」とは、似て非なるものだと思えるからです。もっと言えば、「息抜きとしての娯楽」として「娯楽」が回収されているのではないか? と危惧していて、さらに言えば、回収しきれなかったものこそが大切なんだろうがよ! と怒り慄いているのです。

やっと戻ってまいりました。「がくえんゆーとぴあ まなびストレート!」に登場する女の子たちは、その回収しきれなかった部分をふんだんに、余すところなく楽しんでやろうと試みているように見えるのです。だから感動してしまうのです(たぶん)。

舞台は近未来、2035年少子化が進み、価値観の多様化もさらに進んで、生徒数の減少し、活気がなくなる学校が多くなった。一方で高校に進学せずに働きに出ることがカッコイイと考えられるようになり、大学への進学にも必ずしも高校を出る必要がなくなっている。

というこのアニメの設定(放送分から判断して個人的に積み立てたものだけど)も、俺の妄想的感動を後押しします。

学校がなくならない限り、きっと学園祭はなくならないでしょう。それはつまり無駄の多い(ように見える)「娯楽」としての学園祭の代わりに、「息抜きとしての娯楽」としての学園祭が出てくると考えるからです。前者が効率化され後者になると言ってもよいでしょう。アニメでぼやけて見える聖桜学園の学園祭と愛光学園のそれとの違いは、そこなんじゃないだろうか。

無駄の多い(ように見える)「娯楽」の有意義なものってなんだろう? ということを考えながら『まなび』の今後の展開を見守っていきたいと思います。