山下敦弘監督作品『天然コケッコー』を観ました。原作漫画を先に読んでいる自分は「これって原作のいいシーンをただ繋げているだけでは?」という疑問が湧き、本当にそんな感じでほぼ最後まで進んでいく。しかも一切過剰演出なしで、ワンシーンワンシーン、を決してドラマチックにはしないで、淡々と、でも猛スピードで時間が流れていく。たぶん一年半くらいの時間がこの映画の中で移り去る。

丁寧に描かれていたので決して飽きはこなかったけれど、「盛り上がり」が欠けたままエンディングへ。でもそのエンディングが全てを拾いあげるかのようなものだったことで、いっきに全てが晴れ渡る。「このあたり前のことが全て、いつか奇跡的な時間だったように思えるようになるのだろうか?」主人公のそよは確か終わりのほうで、そんな感じのセリフを口にする。そして間もなく、「えっ、終わっちゃうの?」というシーンがやってきて、それと同時にくるりの「言葉はさんかく、こころは四角」が流れ出す。

すごい良かったのは曲が流れている間、つまりスタッフロールが流れている間、満席だったお客さんが誰も席を立たなかったこと。たぶんみんな、この曲も映画に含まれている、終わるまで映画は終わらないんだ、ってことを感じ取っていたんだと思う。スタッフロールに食い込むように曲を映像が使われてたってこともあるけど、普段ならぞろぞろと半数近くが立ち上がるのを見ているので、この観客の光景だけでも特別な感動があった。

そしてなにより素晴らしかったのは、曲が流れている間、なんてことないようなひとつひとつの出来事が、振り返り思い出すことで不思議と輝きはじめたことだ。頭に思い描くのは映画のシーンである必要はないはず。自分自身の今振り返ると奇跡としか思えない、でも当時はなんてことなかった光景を頭に浮かべれば、それだけでそのどれもが輝ききらめく。もしみんなの想像の中身に共通しているものがあるとしたら、それはその思い出が誰かと、誰かたちと一緒にいるってことに違いない。

原作では町全体を丁寧に描きながら、その中で歩き出す二人の「恋愛」が進んでいき、町全体が二人を包み込むような終わり方をする(今手元にないから記憶に頼ってるけどたぶんそんな感じだった)。でも映画では、右田そよが完全に主人公に置かれているため、彼女が垣間見た町の姿だけが写し出される。そして映画の終わりで、そよの方から町へと広がっていき、長く過ごした学校を両手で包み込むように終わる(それはまったく逆のようでいてまったく同じことなのではないだろうか?)。

いや、終わらない。映画では続いていくことを前提として「言葉はさんかく、こころは四角」を流し、ちょっとした区切りをつけているだけのように見えた。むしろ続いていくからこそ思い出が輝き出すのかもしれない。

このエンディングで急に湧き上がってきた感動は、うまく説明できそうにない。今考えるとものすごい野心的な映画だったような気さえする。観にいって良かった。

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