■寒い・・・・・・、こんな時期にはラーメンが食べたいでごわす!なんて口にするのかなぁ普通の人は、とふと思う自分はラーメンに対する愛情がほとんどない。故にここのところラーメンを全然食べていない。カップラーメンを片手に「なんてエレガントな化学調味料の配合なんだ!」と舌鼓をポンポン打つことはあっても、ラーメン屋でラーメンを食うということを(少なくとも)一年はしていない。今の俺とラーメンとの距離はそれくらい離れている。

しかし数年前までは人並みに贔屓にしているラーメン屋があり、さらにその先に行こうとラーメンという大海(≒スープ)に漕ぎ出していったことも確かだ。「漕ぎ出す」とはつまり次のようなこと。(これはラーメン屋に限ったことではないのだけれど)あまりにお気に入りの店ばかり行ってしまう性格の自分に対し、「たまには不味いラーメンを食ってこそ人生だ!」などという思いが急に沸き起こった。そして「これからは色々な店に足を運ぶんだブンブン!」とむやみやたらと目に付くラーメン屋に入っていったのだった・・・・・・。

十数軒回って理解したことは、「俺、ラーメンそんな好きじゃない・・・・・・」というあまりにも根本的なことだったので、さすがに腰が抜けてしまいスープの中に沈没。それがわかっただけでも良いとしよう、と思い込むことにしよう。そうしようそうしよう。そもそも「この一杯に全てがある」とか「ラーメンという宇宙」とか、作る方も食う方も精神論に行きがちな感じがそもそも苦手だったのだ。高校生の頃周囲がしていた「どこのラーメンが一番うまいか論争」の輪にも(争いの意味がまったくわからず)入っていけなかった。

ということでそれからは、付き合いラーメンを除き行くとしたら贔屓の一軒だけになってしまった。その「行く」という判断は、冒頭の「こんな時期には・・・・・・」といったラーメン渇望からくるものではなく、小さな何かを成し遂げたとき、なんかテンションがあがったときなどに下された。その先になぜラーメンであったのかは自分でもよくわからないが、一人で入っても違和感がない店ということと、これから付け加えることにどうやら理由がありそうだ。

言うまでもなくチャーシュー麺は豪華な一品である。上のような判断を下して店に入った自分は、当然のように店で一番高いその品を注文する。どんぶりがやってくると花弁のように飾られたチャーシューがまず目に入り、そのボリュームに圧倒される。油ものが極端に苦手な自分にとって、それだけの量のチャーシューを食道に通す行為はかなりの苦痛を伴うものだったけれど、普段まったく見せない男気というやつを、なぜかこんなところにだけ発揮していっきに平らげてしまう。

そういった所謂「手の届く贅沢」というやつが、なぜ自分にとって大して好きではないラーメンに向けられたのだろう?という疑問には、今でもうまく答えは出ない。もちろんそもそも答えなどある必要はないのだけれど、その疑問に対する手がかりはそのラーメン屋の店長にあるのかもしれない。坊主で髭づらの店長は、「オヤジ」と呼ぶほど歳はいっていなかったが、年齢が近いという利点がまったく生かされないほど強面で、親しげに話したことは一切ない。一時期「スープ残したら半殺しにされる」という噂も立つほどの「あっちの顔」で、さらには一人で店を切り盛りしているので、行くにはちょっとした心積もりが必要だった。

顔に似合って接客も無骨だったが、常連の客は大した根拠もなく「ああ見えてきっといい人なんだ」と決め付けているように見えた。自分不器用ですから、ラーメンを介してでしか人とコミュニケーションできないですから・・・・・・、みたいな店長対する神話(?)を、暗黙の内にみな共有していたのだ。おいしい食べ物出すということは、つまりそういうことなのだ。そう実感できる、あの奇妙な店の雰囲気は他ではなかなか味わえないだろう。それがあったからこそ特に好きでもないラーメンを食べに行っていたのだ、という理由の後付は、自分としてもなかなかしっくりくる。

だがその唯一通っていたラーメン屋はもうない。「えっ!」と口に出てしまうくらい急に閉店してしまったのだ。ある日、今日も食べようと店の前まで行くと、もう開くことのない店の扉に閉店の旨を伝える紙が。そこには「長年のご愛好ありがとうございました」などというありがちなことは書かれておらず、「体調不良のため店を畳みます」という、ものすごーく客の心配を誘う言葉が残されていた。もっと他に言葉あっただろ!と思いつつも、まったくあの店長らしい・・・・・・と常連はみな感じたに違いない。