■計画性のない友人から半端な時間に呼び出され、冷え込む空気の中しゃこしゃこ自転車をこぐなどして待ち合わせの店に。そこには、「エロ以外ならなんでも書くライター」になっていた高校の同級生(7年ぶりの再開)と、「映画館でホモのオッサンにガンガンお触りされた」経験があるという、初対面のつるっとした色気のある五つ年上の大学職員の先輩がいた。その人選はいったい何なのだと問うと、「あたしが今会いたい人を順番に呼んだ」という答が、その計画性のない友人から返ってきた。

そこに広告、音楽関係の仕事に携わる先輩などが加わり、さらに何の集まりか分からなくなると、万国共通で愛好されている卑猥な話というやつを、(みんな大人なので)言葉を選びながらみな披露していったのであった。様々な経験談が出たのだけれど、あるひとつの話が強烈すぎて、勿体無いことに他の話が霞んでしまった。

取引先の重役にして「ちょい悪どころではない」五十後半のオジ様に呼び出され、アレな誘いを交わしつついくつか店を梯子。「ここで最後だろう」とホテルの地下にあるバーに入り、その後「そろそろもう・・・・・・」と帰宅を匂わした。その時に、もう孫もいるそのオジ様が最後に口にしたという誘い文句が、この若造にはあまりにも衝撃的だった。

「上でFUCKしようぜ!」

もう会ってないのにメロメロ(もちろんその前に大爆笑なのだけれど)。「さすがに一瞬ドキッとした」と本人は言っていたが、結局申し訳ありませんとそのバーを後にしたという。

その研ぎ澄まされた誘い文句は当然、自分の中の〈声に出して読みたい日本語〉の上位にグイグイ食い込んできたので、実際使ってみようと楽しくてしょうがなくなった。のだけれど、これは「ご利用の際は使用上の注意を十分お読みになってお使いください」という警告が、ベッタリ貼られた危険な言葉。自分程度の人間には一生使えないだろし、たぶんそれでいいのだと己に言い聞かせた。



■これは上の話とは直接は関係ないのだけれど、雨が雪に変わった帰り道に、ひとつ考えたことがあった。それは「でもあたし、好きな人としか(セックス)しないから」という自己フォローっていったい何の意味があるの?ということだ。昨晩も含め、最近女友達の口からよくその言葉を聞くのだけれど、その度に、そんなのお前の匙加減じゃねーかよ、と必ず思ってしまう。毎回そう聞き返したいのだけれど、だいたいそのセリフというのは、事実上二股状態にあった、とか、行きずりの○と×△、などといったちょっとした「ルール違反」を告白した後だったりするので、さすがに強くつっこめない。

別に不正確だから訂正しなさいと言いたいのではなく、「でもあたし、好きな人としかしないから」が、彼女たちの何を守るために使われているのかがすごく気になったのだ。個人的には(カッコ付の)「ルール違反」などなんのマイナスにもならないし、「いっちゃえ、やちゃえと」とむしろ煽ることをモットーとしているのだけれど、どうやらそこには見えない一線というやつが引かれているらしい。

よくよく考えてみると、その言葉の柔軟さには驚かされる。例えば、上に書いたオジ様の誘いに「OK、ファック・ミー!」と答え事に及んだとしても、誘われた瞬間「好きになった」と思えば、その黄金律には違反しない。また「NO、NO、NO・・・・・・」と消極的な反応を示しながらも、「レッツ・トライ!」と腕を引かれ、気づいたらルームインでベットイン。それでもその相補的エンターテイメントの最中に「この人好きかも」と思えば違反にはならない。さらには、その行為がジェネレーションギャップを感じざる負えない残念な結果に終わったとしても、「まぁいい経験だったかな、嫌いじゃなかったし」と思い、ついでに「まぁ、あたしは好きな相手としかできないから、あのナイス初老ガイのことも好きだったに違いない」とまで辿り着けば、なんら問題なく「でもあたし、好きな人としかしないから」と言えてしまう。

つまり、己の「純粋さ」を保つためのルールとして、コイツはかなり「使える」。たぶん自己否定をしないための線引きなのだろうとは思いつつも、個人的には、もうそういうのやめて自由にやろうよ〜、と感じてしまう。のだが、しかししかし、そういうほとんど「解釈の問題」の域にまで達している柔軟な戒めを、うまーく生活に取り込んでいる人の方が、実際は自由に恋愛だの性愛だのを楽しんでいるのが現状だったりする。もしかしたら単に羨ましいだけなのかもしれない。なんじゃそりゃ。ファック・ミー!