■久しぶりに読んだ本の話。相変わらずお安いんで新書を手に取ることが多い。宮崎哲弥さんが昨年の新書ベストとして挙げていた中で、読んでなかった飯尾潤『日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書)、アルボムッレ・スマナサーラ『般若心経は間違い?』(宝島社新書)、工藤庸子『宗教VS.国家』(講談社現代新書)に目を通してみたり。とても宮崎さんらしいチョイスで、当然のように全部面白かった。

それとは関係なくエリック・ゼムール『女になりたがる男たち』(新潮新書)も読んだ。これは完全にタイトル買いで、見てピンとくる人は思わず買ってしまうのではなかろうか。読んでビックリ、する人はしちゃう内容だけど、自分的には「この切り口があったかー」といった感じだった。共感という意味ではそれほどでもなく、翻訳した夏目さんがあとがき書いていたように「彼の分析・批判が的を射ているとしても、そこから彼が導く結論と方向性に賛成できるわけではない」。当然あるべきカウンターとして出された本なのだけれど、いろいろと強引な面が目に付いた。

内容は結局のところ、フランス人によるフランスに蔓延しているというマッチョ批判の批判。面白いのは、そのかなりの部分が日本にも当てはまるかのように見えるところ。もう「男」はいい歳したオヤジと移民、そしてわずかな低所得者しかいねー、というボヤキも、移民を除けば、日本の若者批判をひっくり返せば当てはまる(つまり、モー娘ってみんなできちゃった結婚じゃねーかよ、っていう皮肉を反転させているわけだ)。

その中でも目を引いたのは、「カップル」というつながりを過剰なまでに神聖視→当然のように家庭崩壊→シングルマザーの量産、という嘆き。後半も問題だけど、面白い視点は最初のやつ。最近の恋愛気質の若者は、なぜか短命で薄っぺらい付き合いしかできない。という現象は日本でも最近ちょこちょこ取り挙げられている。それに対するアンサーには「コミュニケーション能力のなさ」が挙げられがちだけれど、根っこにはこの「カップルという単位の過剰な神聖視」があるような気がする。

「つきあってる」なんて所詮口約束にすぎないでしょー、などと言うと、完全に場は白け、冷たいどころか哀れな有機体でも見るかのような視線を送られてしまう。暗黙の内に共有されている、と思い込んでいる「カップルルール」(しかも人によってかなり流動的ときてる!)を破ると、法を犯したわけでもないのに過剰な人格否定にまで発展することも珍しくない。最近話題のデートDVなんかも(これだけが原因ではないにしろ)ここと密接にかかわっているように思える。

あと、男は一度「上」だと認識した相手には(暴力的にそのポジションから引きずり下ろさない限り)欲情できねーよ。というツッコミ(?)は結構笑えた。人によるとは思うが、そういう方々には切実な問題に違いない。「下」の(少なくとも「上」に見なくても済む)相手を探すために、フランス人以外に目をくばらせている、という話はかなり重症。日本だとそこが二次元の異性に思いをよせる、という現象がその代わりを果たしているのかもしれない。

なーんだ、日本とおフランスはとっても似ているではありませんか!と思いきや終わりのほうで、フランスの大統領は代々、女性か関係の噂に事欠かないプレイボーイばかりである(そしてそれを国民が許容している)、ということをを読んで知り、その瞬間、日本を湧かせた某首相は大変なオナニー好き、という噂(というか周知の事実らしい)を思い出してしまい、受けている波は似ていても根本的にはじぇんじぇんチガゥッ!ということを思いしらされたのであった。