先日、友人とご飯を食べる機会があった。暑い日々が続いたので気をきかせたのか、最近聞いた怖い話とやらを彼女は急に語りはじめた。それは幽霊(と思われる非生命)が出てくるもので、その類は一切信じていない(というかそもそも、どうして信じられるのかが解らない)コマツさんは「ハァ左様ですか」とそっけない反応しかできないのであった。

「ごめん。そういうの信じてないからまったく怖くないや・・・・・・」

予防線としてそうこちらが口にするも、じゃあこの話は? コレなら信じるでしょ? ぬぬぬぬぬ、もう最後にコレ! コレ信じなきゃ嫌いになるよ!! と逆に畳み掛けられてしまったのだった。

もちろんどう切り込まれても、そのどれもが勘違いか嘘かのどちらかにしか聞こえない。彼女は非科学的な存在を信用しない人間の、その軸となる根本的な部分を理解していないのだろう。終いにはこう叱責するのだった、なんで信じてくれないの!?

「科学的な証拠があまりにもないんで・・・・・・」

世の中には科学で証明できないものが沢山あるんだよ!

「そりゃそうだろうけど、多角的に研究されてないものを無闇に信用するのはどうかと・・・・・・」

ここまで言うとさすがに彼女も諦めがついたようだった。だがその代わりに「じゃあコマツ君に怖いものなんってないんだね!」と勝手に言い切り、プンスカプンプンとあからさまに機嫌が悪くなってしまった。まずい、と感じたコマツさんは場を和ませようと、

「でもやっぱ幽霊よりヤクザとかのほうが怖いよね。うん、ヤクザは怖い!」

と言ってみたのだが、返ってきたのは予期せぬ反応だった。

ヤクザは話せばわかるでしょ! 

わかり合えるでしょ! 

でもオバケは話すら聞いてくれないんだよ!!

コマツさん爆笑。しかしこの後、そんな風に信じない人がいざという時に一番不幸になるんだからね! とまで言われてしまう)


見えないものが怖いと感じる人は、実際に怖い存在(つまり「怖い」ということを営みとして演じている存在)よりも、まったくコミュニケーションできないそれのほうが、もっと恐ろしいと感じるらしい。それとも逆に、自分が【見えない恐怖不感症】なのだろうか。


コマツさんはあることを思い出した。それは世紀末の記憶で、まだ艶やかな高校生の頃のものだ。ノストラダムスの大予言。信じてないけど、そのことを考えるとスゴク怖くなっちゃうんだよね。そんなことを生物の時間に漏らしたKさんは、9割がた起こらないと思っているそれに小さく怯えていた。何度も自分で笑い飛ばしているのにこぶり付いて離れない。話を聞くとそんな感じだった。

コマツさんは例のごとく「あ、オレそういう感覚ワカンネー」と友達甲斐のない返事をしたのだが、今思い返すと「わかるわかる」と同意して欲しかったに違いない。そんな馬鹿みたいな不安を抱えているのは自分だけじゃないんだと、身近な人間の反応から実感したかったのではないだろうか。


やはりこちらが不感症なのだろう。見えるものの恐ろしさしか知らない自分は、まだ本当の恐怖を味わっていないのだ。精進精進。そんなことをつぶつぶと考えている今日この頃、そういえば読みこぼしていたなと平山夢明の小説『他人事』を読み始めたら、

やっぱ人間のほうが怖い!

と心底思ったのであった(再び逆転!)。同じホモサピエンスと分類されている生命体だって、どんなに話しても通じないこともあるし、そもそも分かり合う気がないヤツだっているのだ(フィクションの中だけでなく現実にも)。しかもそれが、実際に本当に、目に見えるカタチで存在している、ということの方が、見えない恐怖よりも数段恐ろしいではないか。

きっとみんな身近にある怖さに気づいていないだけなのだ。だから見えも触れもできないモノを、いちいち怖がっていられる余裕があるのではなかろうか。