何か大きな間違いを犯しているのではないか?

コマツさんはとあるドキュメンタリー番組を見ていたら、ヨーロッパのどこかの青年の背中に「拉致」と彫られていたので奇妙な気持ちになった。日本の若者が早まってそうするように、海外の若者も勢いで刺青をするのだろう。何が切欠になったのか(アニメ?)漢字やカタカナを彫っているのを最近目にする機会が増えた。

コマツさんのような日ごろ漢字を使用している者からすると、彼らカッコイイものとして埋め込んだソレは、まったく惹かれる要素がない。そもそも「漢字のタトゥーって(笑)」という引き気味で見てしまう。強いて言えば暴走族てきな無意味な語呂合わせ(「夜露死苦」(ヨロシク)のようなもの)ならば、別の面白みが付加されているし「わからなくもないか」というくらいで、そもそも「漢字はなしだろう」という大前提があるような気がする。

日本のストレートな詞の歌は苦手だけど、海外のストレートな歌詞の曲は心に響く、などといった経験を若かりし頃したことのあるコマツさんとしては、彼らをあまり足蹴にはできないのだが、刺青でそれをやってしまうのはやはり痛く、痛々しい。「愛」は特によく見る漢字タトゥー。「LOVE」が日本で氾濫しているのを考慮すればそんなことあたりまえなのだけれど、今「LOVE」をなんらかのカタチで身に着けている人が「愛」を身に着けるかといえば、そんなことありえるとは思えず、それはつまり似たような意味を持つ言葉でも、ここまで違って捉えているのだという証明にほかならない。

コマツさんが目の前の問題として悩んでいるのが、英字のTシャツを今後恥ずかしげもなく着れるだろうか?ということだ。ほぼ一生ものである刺青と比べると、とっかえひっかえできるという面で大きく違うが、体に掲げている点では同じ。我々が漢字に対する感覚と、英語文化圏の英字に対する感覚は似ているだろうと考えると、やはり同じように構えてしまう。

企業名やバンドの名前など、固有名詞であれば大丈夫な気がするが、あきりたりな単語やウイットに富んでたり富んでなかったり、跳んでたり跳んでなかったりする(そもそもその微妙な判断ができない)文章のものは怖くて着れない。コマツさんは小心者の傷心者なので、もはや無地であることにこだわる始末である。

以前、どっしりとしたマダムが「FUCK! FUCK! FUCK!」と縦に三つ並んだTシャツを着ているのを見て、似たような危機感を覚えたことがあった。つまるところこういう疑問である。

何か大きな間違いを犯しているのではないか?