「食」をテーマにしたもので、少しでも気になるものがあればまめにチェックしているのだけれど、今日のクローズアップ現代「“食”がいのちを救う」はなんかぞわぞわした。

内容をざっくりまとめると、食事にこだわりがなくサプリメントなどで必要な栄養を摂取する若者が増えている→コミュニケーション能力の欠如の一因として、家庭の食環境の悪さが挙げられる→介護現場での食事が生み出す幸福の重要性、といった感じだったと思う。

個々の事例はそれぞれ興味深いが、こう3つ並べると「食事ってやっぱ大切だよね!」みたいな何も言っていない、故に何もの残らない感じになってしまう。改めて書き記してみるとあんまりフェアな感じがしない(特に最初の人々に対して)が、放送中にあまり悪い印象は受けなかったのは、ゲストだった料理家、辰巳芳子さんのまどろっこしいが魅力的な解説(感想?)があったからかもしれない。


死んでいく人になぜ食事が必要なのか、という問いを立て(←この問い自体に既にぞくぞくする)、美味しい物を食べれることは今まで生きてきた証、故に人としての尊厳を守ることなんだと語る。


食べることは勝手に身につくのではなく、学ばなければならない。食べることを学ぶということは、人を愛すること、愛されることを学ぶことなのだ。人を愛することを学ぶことなのだと思えれば、若い人たちも食べることに興味を持ってくれるかもしれない。

(※思い出しながら書いているのでそのままではないよ)


ちょっと前までは何言っんだこのババァ〜、なんでも愛でまとめりゃ済むってもんじゃねーんだよッ!と口汚く罵ってからサッと流していただろうけど、今の自分とっては「これは!」となにか掴みかけたような感触があった。


ちょっと前、先輩と飲みながら話したもののなかに、自分ひとりだと「面倒だからカップラーメンでいい」と思えるが、もうひとり誰かがいると何故か「もっと健康的なものを作らなければならない」と自然に(いや時に脅迫観念的に!)思ってしまう、あれはいったいなんなんだろうねぇ、というのがあった。いやーそれは愛故にっすよ、ラブラブな証拠じゃないっすか☆などとは簡単に言えるが、果たしてそうだろうか。もしかしたら食自体に自ずと愛を引き寄せてくれる(あるいは嫌でも引き寄せてしまう)、驚くべき力があるのではないか。

こんなふうに考えていたら、以前読んだ片桐はいり『グァテマラの弟』に出てきた弟の嫁を思い出した。グァテマラで結婚した弟の嫁は、たっぷり太っているが料理がたいへん上手い。それは母親から受け継いだもので、

美味い料理が作れれば大概の問題は解決できる、

と言われながら育ってきたのだという。ウマいメシ。この甘い罠には引っかかるしか術はない。そんな我々は食虫植物に騙される昆虫を笑うことはできないのだ。ぎゃー


しかし今回の話題は、その引っかかる側に「引っかかる能力」そのものがなかった場合、いったいどうなってしまうのか、という話だった(ような気がする)。辰巳さんは食べることを学ぶことは愛することを学ぶこと、と同時に「愛されることを学ぶこと」だとも言っていた。この受け手にもなれない、ということが実はすごく重要なのではないか。つまり、食べる喜びを知らない人は、愛し合う術、この言い方が気持ち悪いなら、強くつながることができるコミュニケーション手段のひとつを、完全に失っていることになってしまうからだ。


数日前最新刊を読んだよながふみ『きのう何食べた?』は、同棲するゲイカップルの題材に漫画で、毎回貧乏性で料理好きの筧が、使える(!)レシピの披露する。二人は当然喧嘩もするのだが、そんなときはきまって筧は相方の好きそうな料理を作ってその場の雰囲気をごまかし、なんとかする。それは問題を先延ばしにする、ということではなく、一瞬の諍いで生まれたあのなんともいえない 間 をどうにかするためにごまかすのだ。強制的にリセットさせる、と言ってもいいかもしれない。

どんな優しい言葉もまったく意味をなさない、というか余計状況をめんどくさくするだけ、というアノ状況を、一度でも体験した人であれば、アノ感じをどうにかするのがどれだけ大変かということは、十分理解できるはずだ。とりあえず距離を置く、という方法はすぐ思いつき、即効性があるので一見有効なように思えるが、とほど関係がうまくいってない限り、解決を先延ばしにするだけで何の役にも立たない。そう考えてみるとアノ状況を変えるために食に逃げた(助けられた)、という経験がある人は、意外と少なくないのかもしれない。

食に興味がない人には、この方法が通じないというのだから大変だ。だとすると、アノ状況を一変させるには・・・・・・性行為、くらいしかあとは思いつかない(※←やったことはないよ!)。子供がいるならば彼らが自然と中和してくれるとかはあるかもしれないが。


食事の一面として、言葉に頼らない自然と快を生むごまかしの手段、というものがあり、故に「愛」と呼ばれるものと密接に関係がある、というまとめでとりあえず終わりにしておこう(眠いから)。単純に家族で食卓を囲むという行為の重要性も、そこから見えてくるような気がするし。


辰巳さんは若いころは料理好きでもなんでもなく、主婦をしながら「なぜ食べることにこんなにも時間や労力を使わなければならないのか?」という疑問を持ち、そこから料理家という道に入ったのだと話していた。うーん、いちいち興味深い。本も沢山でているようなので、何冊かそれっぽいものを読んでみて、続きはその後考えよう。

テレビをつけたらサザエさんがやっていた。でてきたカツオは緑の短パンに黄色いTシャツと、完全なブラジリアンカラー。きっとこれからマブダチの中島とサッカーをするに違いない。そう期待して見続けたが、追いかける姉を振り切ってまで参加したのは、なんと野球だった。騙された!

うわ〜ん、涙とくしゃみが止まらないよぅ・・・・・・、という状態がしばらく続いたので、これはもしや部屋が埃っぽいせいではないか?と目星をつけ、季節外れの大掃除をする。

勘違いされては困るが、決して汚部屋などではない。むしろなんとなく綺麗にするのは得意なほうで、10分準備時間をもらえれば、いつでも友達を招き入れることは可能なくらいは整頓されている。しかし、見えないところを隅々までやるという作業は随分長い間放棄しており、ついには本棚に近寄ると、もれなく粘液が鼻腔から湧き出てくる、というまでになってしまった。

原因はたぶんあのシャワシャワな埃取りのせいだ。狭い所にまで手がとどき、被さる汚れをふわっと宙に浮かせてくれる、便利なアイツが裏切ったのだ。空中分解させることで一瞬消失したかのごとく感じるが、実は本質的になんら変わっていない。そんなことにも気づかなかった。私はアイツのことを信じきっていたのだ。強力な味方であると・・・・・・。

お手軽故に、本来拭き取るべき埃をパタパタシュパシュパ払っていた。用はそういうことだったのだ。そして徹底的に、出したり戻したりしながら吹いたり吸い込んだりその後貼り付けて除去したりした結果、なんとか正常に暮らせるようにまで戻った。よかった。

見かけの便利さに騙されてはいけない。振り返って教訓化すれば当ったり前の事だが、意外なところに潜んでいるそれから一生逃れられない、ということをしみじみ実感した一軒だった。

リニューアルした、カップヌードルを食べた。コロチャー美味い! あら海老ってこんな入ってたっけ? この卵ったらふっわふわ☆ と大満足だったが、あまりに豪華過ぎて不満。今、庶民の味方であるひとつの基準に「百円で買える」というのがあると思うのだが、そっちは完全にスープヌードルに譲ってしまったようだ。こんな盛りだくさんのもの100円以下で買えるはずないもの。

たまにしか食わないのに50円の上乗せができないこの悲しさ(みんなで一斉に買ったりするとノリで買えるんだけどな!)。ちなみにシーフードのほうは何が変わったんだかサッパリ。いるのかいないのかわからない貝柱なんていらないよ!

侮るなかれ。料理の特集のときの「ためしてガッテン」は、必ずあるアガる↑情報が出てくるので毎回チェックしている。NHK特有のダジャレ好きが異様なまでに反映されている番組だが、内容が良ければその全てを肯定的に捉えることができちゃうのである。

先日はケチャップ特集。まさかケチャップがダシ代わりになるとは(!)。ケチャップ味噌汁を早速作ったが、びっくりするぐらいまとも。驚きの味、とかではなく「まとも」であることに衝撃を受ける。だっていつも冷蔵庫にいたアイツ、ケッチャップの仕業なんだもの!!

ちゃんと科学的に解明するところも素晴らしい。ケチャップは水で薄めると酸味や塩味が消える一方でコクとうま味残るという。トマト料理の大半はその酸味を生かしたものがなので、そんなトコ気にもしていなかった。

その他、定年後街中でトマトを育て、できた実を惜しみなく子供たちに配っているトマトおじさんが、自身のトマトをつかってケチャップ作りに挑戦。味には満足したものの「こんなに少なくなっちゃうんだ・・・・・」と寂しそうに完成したケチャップを見つめる、というトマトおじさん萌え、なんかもある至れり尽くせりの放送だった。

ガッテンのさらに素晴らしいところはそのアーカイブ。トマトおじさんは見れないものの、要点や紹介された料理のレシピなどを、ホームページで惜しみなく公開している。過去の放送を手軽に振り返ることができるが、そこを見て改めて感じるのがやはり、番組がすごくわかりやすくできている、ということだろう。ちゃんと見てから振り返る、これガッテニストの基本ね、基本。


なぜここまで褒めているのか自分でもわからなくなってきたけれど、さぁ〜「ためしてガッテン」の魅力、ガッテンしていただけましたでしょうか?

テレビでひき肉ときのこのカレーを作っているのを見て、食べたい!と思い、ネットでちゃっちゃっと調べて作ってみる。しめじとえのき、あとエリンギが冷蔵庫の中に眠っていたので、一口大に切ってそれも入れることに。

カレーを作るときは中華鍋を使う。量作るのでそっちのほうが断然炒めやすい。野菜を炒める時よく起こる地味な感情の起伏がある。最初指定された量鍋に入れると、こんな食えないよ!なボリュームに圧倒されるものの、しばらく火にかけると思っていたよりも縮み、安心。そしてさらにしばらく経つと、こんなに少なくなっちゃって・・・・・・、と損した気持ちになるのだ。

今回は鍋いっぱいにきのこきのこきのこ。炒めた玉ねぎ、豚ひき肉の中に、エリンギ、しめじ、えのきの順に加える。みっちりきのこ。わっさりきのこ。それをしゃもじでかき回していると、作ってはいけないものを作っている気になってくる。正直気持ち悪い。そういえばやつらの臭いもそんなに好きではなかった、ということにも気づく。換気扇のせいでしっかり鼻腔を刺激してくるのだ。

きのこも野菜と同じように火を通すとかなり縮んでいく。結構水分が出るので底に溜ったそれが飛ぶまで混ぜるように炒める。続いてコンソメスープを入れしばらく煮、市販のルーの塊をそこに加える。その後半溶けのルーがえのきに絡んでなかなか馴染みきらない、というプチハプニングがあったものの無事完成。

味はそこそこ。ちょっと野菜が恋しくなった。茄子。